わたしの夫について

まず、誤解のないように先にお伝えしておきたいことがあります

わたしは夫を心の底から嫌いになることはないです

わたし自身が完ぺきではないので

夫婦はお互い様で支えあっていくことが

理想の関係だということは承知の上で綴っていきます

 

「こんな夫婦もいるのだ」というくらいの感覚で

読み進めていただける方だけ読んでいただけますと幸いです

批判的なコメントはご遠慮いただきますようお願いします

 

 

ということで本題に入ります…

わたしの夫はお付き合いしているときから我が強く

自分が一番正しく、間違いはない

という考えの持ち主でした

当時わたしは朝7時に出て22時に帰宅、

連休はなく寝るためだけに

家に帰っている状態の生活をしており

週に1回もしくは10日に1回

会えれば良い方でまともなデートも

数え切れる程度にしかしていませんでした

ですが、我が強いとはいえ

わたしの言い分も聞いてはくれて

なにより根がまじめでまっすぐなところに惹かれ

2年ほどお付き合いをしたのち紆余曲折経て結婚

入籍してから一緒に住み始めました

 

これは本当に賛否別れると思いますが

これからご結婚される方。

結婚を決める前に一度、同棲されてから決めていただきたい。

(なんなら結婚を考えているなら

お付き合いと同時に同棲もありなのでは…)

結婚を後悔した、とまではいきませんが

当時20代半ばのわたしにとっては

結婚1年目はなかなかな試練でした。

まず、わたしもですが

夫は一人暮らしをしたことがなく、

お母様にすべてを丸投げしていたのです

仕事の合間にデートを重ねていたわたしたちは

そこにあまり重きを置いていませんでした

自分で言うのもなんですが

わたしは実家を出ていなかったものの

調理系の高校を出ており

洗濯等アイロンがけなど自分のことを中心に

できることは学生時代から手伝っておりました

高校卒業後すぐ就職して自分のことでいっぱいいっぱい

何もかも母に頼りきりだったことは自負しておりますが

生活するにあたって困るほど無知ではありませんでした

それがスタンダードだと思い込んでいたのです

 

夫は違いました

レンジの使い方

洗濯機の使い方

ご飯の炊き方

なにもかもひとつずつ説明のいる人だったのです

レンジはあたためボタンしか押したことがないらしく

驚愕しました

そんな夫なのでもちろん料理経験は小学校の調理実習くらい。

絶望。

アパートを借りる時もなぜか旦那の名義で借りることができず

あとあと気づいたのは知らずにカードのリボ払いが膨らんでいたこと。

5歳年上の人と結婚したら

もう少し頼ったりできるんだろうなと思い込んでいた

過去の自分を殴りたい

これを一括返済したので実質貯金マイナスからスタートです

それくらいお付き合いしているときに気付けるのでは?と

思われる方もいらっしゃるかもしれませんが

夫はよそいきの顔になるとしっかり者

家族となり、気が緩んでくると

なんともだらしない人になってしまう才能の持ち主でした

ですから結婚10年目になりますが

そのギャップをどれだけ説明しても

周りの人間には理解してもらえなかったのです

そんなこんなで結婚10年を目前に事件が起きました。

その時はじめて私の家族が夫のやばさに気がつきます

この話はまたの機会に。

 

今回は結婚一年目に驚愕したエピソードを何点か

ご紹介したいと思います

 

まず夫は洗濯機の使い方の説明をしても

一度では覚えられませんでした

わたしも仕事をしながら家事をしていたので

ある程度はできるようになってもらおうと

根気よく教えます

夫の帰りが遅く、洗濯を入浴後に回しておいてほしいと

お願いした日

翌朝…回っていませんでした

まあこれくらいは普通のご家庭でもよくあるお話ですよね

その日の夜、今度は洗剤・柔軟剤も入れてある状態

あとは夫の洗濯物を入れてフタをしてスタートを押すだけ

…フタだけしてありました

家事をしたことのない人にとって

家事を習慣化させることがどれほど大変なのか

痛感いたしました

 

また別の日

シチューを鍋で温めなおしている際

洗濯ものを取り込むから

夫にシチューを見ているように頼みました

わたしも実家でみていてと言われたら

こげないようにたまにかき回したりするので

それで伝わると思い込んでいました

数分後、、夫はキッチンには立っていました

ですが、シチューは完全になべ底が焦げ付いています

「見ててくれなかったの!?」と聞くと

「見ていたよ」と

・・・。

ほんとうにシチューを眺めていただけだったのです

これは、夫がふざけているのではなく

マジなんです

普通の顔をして「見ててと言われたから見てたんだと」

料理をしたことがないひとに

みててが通じないことをこの時はじめて知ります

 

そしていちばんのネックは夫のこだわりの強さ

 

夫は夜もお風呂に入り

必ず朝もシャワーをします

実質貯金マイナスから始まっている夫に

ガス代も水道代ももったいないからやめてと

お願いしますが

髪型が決まらなくなるからという理由で

やめませんでした

 

筋トレを毎日していた夫

プロテインを朝晩と飲んでいました

それを豆乳で。

せめて水にしてくれと頼みましたが

答えはNO

炭水化物や揚げ物も控えていた夫

カレーはご飯の代わりに卵

一食5個も使っていました

 

結婚する前、お互い忙しかったため

そのせいでケンカもよくしました

なので結婚を決める時

お互いの誕生日や結婚記念日は大切にしようと

約束して結婚しました

 

入籍してはじめてのイベントは

2か月後の私の誕生日

普通に仕事があった夫

休み希望を言えば休みが取れる職場でしたが

夜何かしてくれるのかと期待していました

ですが…

当日の朝

「俺、今日仕事帰り美容院いってきていい?」と夫

あまりにあっけにとられて

これもサプライズの一部なのかとあたまをよぎりましたが

夫の顔を見るととぼけた様子

一応怒らずに「今日は美容院に行っていい日なの?」と返すと

「…いっっっっったらあかん日やな…」と夫

「忘れてたのね」「いや、今日が誕生日当日やってことを忘れてただけ」

と訳の分からない言い訳

「誕生日当日だということを忘れてただけなら

プレゼントやケーキは用意してるのね」と聞くと

どうやらそれもしていない様子

 

ケーキやプレゼントが欲しかったわけではありません

ただ、約束を守る誠意を見せてほしかっただけなのですが

それも叶いませんでした

結婚して1年目にこれならこの先どうなってしまうのだろうと

不安がよぎった誕生日でした

本当は楽しみにしていました

自分は休みを取っていました

こんな人と結婚してしまって大丈夫かと

新婚ほやほやなのに

ホームシックに近い状態でした

大事にされている実感がなく

結婚を決めた自分に疑問を抱くほどでした

そんな気持ちをたんたんと出勤後に旦那のLINEにいれ

一人ぽつんとアパートで過ごしました

 

綴り始めたらとまらない

夫のエピソードです

なんだかんだ結婚10周年を迎えて

わたしは長男を10年育てている気分なのですが

綴り続けるとただの悪口になってしまうので

今日はこのへんで…

 

結婚を迷われている方は、

まず同棲されてみてから考えるのもよいのでは

というアラサー主婦のひとりごとでした

 

娘との最後のお別れ

娘のお葬式

まさか自分たちが喪主になってお葬式の準備をする日が

こんなに早く訪れるとは思ってもみませんでした。

わたしの実家はまだ祖父母も元気にしており、

有難いことに父と母も元気でお葬式を自分が手配するなど

まだまだ先の話だと勝手に思い込んでいました。

みんなが元気なことがあまりにも当たり前で

自分が恵まれている環境に気づいていませんでした。

 

娘が息を引き取ってから

看護師さんと一緒にはじめて娘の沐浴をしました。

ずっとしてあげたかった沐浴。

想像していたものとは全く違う、

日が昇り始めたころ、静かなNICUのなかで

夫と看護師さん3人で桶でお湯をかけてあげました。

娘は眠っているみたいに穏やかな表情でしたが

それとは裏腹に

お薬の点滴でぱんぱんになってしまったからだ

生まれてすぐにした脳出血の手術でできた頭の傷

顔についたチューブの痕

がんばってくれた証がそこにはありました

いまだにここまでさせる必要があったのかと思うこともあります

ただ、娘との23日間がもしなかったら

わたしは今のように立ち直っていられたかわかりません

それくらい、この23日間の思い出は大切で尊い時間でした

 

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娘の体をきれいにした後、初めて服を着せてあげることができました

看護師さんが処置をしてくれて退院の手続きを済ませた後

先生と数名の看護師さんに見守られ

娘の死亡診断書を手に夫の車で病院を後にしました

自宅まで1時間半ほど

かわいい音楽をかけて

自分の腕の中にいる娘をずーっと見つめていました

救急車で緊急搬送されて全身麻酔からの緊急帝王切開

生まれてすぐの娘の手術、染色体異常

そんな日々のなか、娘が元気に退院できることを祈って

毎日3~4時間おきに搾乳をしていました

少しでも口に入れてもらえるならと必死でした

四六時中娘のことばかり考えており

ほっと一息つく時間はありませんでした

最後の2日間は目を閉じる暇さえなく

娘を抱いて車に乗った瞬間は、すこしほっとしたのを覚えています

娘がなくなってしまったのに

おかしいと思われるかもしれませんが

ずっと張りつめていた心が解放された感覚でした

ですが、今度はお葬式の手配。

車内で娘のためにかけていた音楽もほとんど聴く暇なく

夫側の両親とわたしの両親、交互に電話をかけて

お寺さんをどうするのか、斎場はどうするのか

コロナ渦ということもありどこまでの親族に声をかけるのか

考えることやること山積みで、キャパはすでに超えていました。

ただやらなければいけないという使命感だけで

あの時の私は動いていたのだと思います

 

帰宅後、娘の顔を見に祖父母や叔母、弟夫婦が来てくれました

お手紙やおもちゃ、折り紙でのかざり、

みんなの想いが娘のまわりをにぎやかにしてくれました

このとき、とにかく周りに心配をかけたくない性格のわたしは

気丈にふるまっていました

今考えるとまわりには奇妙にみえたとおもいます

いつも通りの自分を装うのに必死でした

少しでも気を抜けば自分が立っていられなくなることを

本能レベルで察していたのでしょう

いつも以上に明るく振舞って大丈夫を演じていました。

大丈夫じゃなくてあたり前。泣いてあたり前。

何も手につかなくてあたり前。

そんな状況なのに自分を奮い立たせていたツケが

のちに自分自身を苦しめることになります。

 

木曜日の明け方亡くなった娘。

お寺さんのご都合で土曜通夜、日曜お葬式となり

ほとんど丸二日、娘との時間ができました

この日程で決まった当初は

火葬までにすこし日数があることが気がかりでしたが

この2日間があって本当に良かったです

病院では遠慮があり、してあげられなかったこと

音楽もたくさん聴かせてあげました

たくさんしゃべりかけて隣で寝ることもできました。

一晩中頭をなでてあげることもできて

娘とゆっくりお別れの心の準備ができました

すぐにお通夜やお葬式をができていたら

どうしていたのだろうと思うほど、

決めること、段取り、連絡などばたばたとタスクが多く

帝王切開から一か月も経っていないことを忘れるほど忙しい二日間でした。

 

お葬式当日

娘を抱いて車で斎場へ

娘サイズのちいさな棺を用意していただき、

とうとう棺へ入れる時がきました

さみしくて、つらくて、娘との時間があまりにも短すぎて

どうしようもなく切なくて

言葉では言い表せないほどの感情が溢れました

 

棺に入った娘はどんどんむくみが取れて

穏やかに微笑んでいるような表情でした

その娘を手放さなければいけない

このままずっと一緒にいることは叶わない

こんなにつらい瞬間はありません

斎場でなかなかかかることはないであろう

童謡のCDをかけていただき

何とも言えない時間が流れました

 

お坊さんが到着しお通夜が行われ無事に終了

お葬式が行われた場所で娘との最後の夜を過ごすことに。

自宅でシャワーを浴びてくる間、

わたしの両親、弟夫婦が娘と一緒にいてくれました

考えることがありすぎて

この時の記憶はほとんどありません

お葬式が始まる前

娘の叔父にあたる大学生の私のいとこが

名古屋から娘に会いにきてくれました

かわいい木のおもちゃを娘にプレゼントしてくれて

娘の棺はさらに賑やかになりました

 

お葬式も無事におわり、火葬場へ

印鑑が必要と聞いていましたが

旦那は印鑑が入っていたカバンを家に置いてきました

わたしもそのかばんを置いた瞬間に覚えがありました

ふたりして絶望していた時、

ふと旦那が違うカバンから印鑑を出してきました

おいてきたはずの印鑑がなぜか違うカバンに入っていたのです

不思議に思いながらも

なんとなく娘が助けてくれたのかなと

ふたりで話しました

 

いよいよ火葬の時間になりました

みんなの前で号泣することを避けていたわたしですが

さすがに無理でした

3年間待って、待って、待って、待望の第一子

ようやく会えた最愛の娘

こんなに早くお空に還さなければならないとは

1ヵ月前のわたしは想像もしていませんでした

 

火葬のボタンを押した後、些細なことで旦那と口論に。

娘に異常が見つかってからの約4週間

張りつめていたものが溢れだし

気持ちに抑えが利かなくなっていました

しばらくひとりになり、旦那と落ち着いた後

みんなのもとへ戻りました

心配そうに見つめられる視線がつらく

笑ってごまかしていました

 

娘の火葬がおわり、収骨

ちいさな体の小さな骨を

みんなですこしづつ、骨壺へ

最後は一つでもかけらが残らないように

丁寧に係の人が丁寧に拾ってくれました

本来なら、大きなお骨を拾って終わりであろう収骨

お心遣いがうれしく、しばらく甘えてしまいました

汗を拭きながら拾ってくださった方には感謝しかありません

 

娘の骨と帰宅後

父と母がご飯を買ってきてくれました

何も考えずにたべる食事は久しぶりでした

なにをたべたかはあまりおぼえていません

 

四十九日までに考えること、決めること、購入するもの

すべてが気がかりで気持ちが休まることはありませんでした

 

たくさん悩んで決めた結果

娘の骨は私と夫どちらかが亡くなったときに

一緒にお墓に入れてもらうことに。

それまでは自宅で供養をすることにしました

賛否あるとは思いましたが

どうしても手放すことはできませんでした

 

 

奇跡の23日間: NICUでの出来事 #奇跡②

こちらのページは奇跡の23日間: NICUでの出来事 #奇跡 のつづきになります

まだ読まれていない方は、よろしければこちらから読んでいただけますと幸いです。

 

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12日目

わたしは母親としてできることが限られていることに、もどかしさを感じていました。

生きてくれているだけでありがたいことなのはわかっていましたが

NICUで娘の隣にいる赤ちゃんを抱いてあやしているお母さんが

羨ましくて仕方ありませんでした。

娘はたくさんのチューブにつながれていたので簡単には抱っこできず

コロナウイルスも頭をよぎり、なかなか思うように触れ合えませんでした。

わたしにできることは搾乳した母乳をもっていくことだけ。

毎日たった15分の面会で母親と呼べるのだろうかと弱気になっていました。

13日目

この日は借りていたゲストハウスの退去日。

なるべく娘の近くにいたかったので

病院近くのウィークリーマンションを借りることにしました。

面会では娘の足をなでなでしたり、小さな手を握ったりして娘との時間を過ごし、

面会後病院から車で一時間半ほどの家に一度帰って荷物を整理することに。

娘を出産してから初めて家に帰るので

この間に娘に何かあったらどうしようと心配していましたが

わたしたちの電話が鳴ることはありませんでした。

14日目

この日は夫のお母さんとお父さんが娘に会う日だったので

病院の決まりでわたしたちは面会に行けませんでした。

搾乳しても娘に会えないと思うとむなしくて涙がでました。

お昼ごろ病院から電話があり

娘の呼吸が不安定でおしっこが出にくくなっているというお電話が。

とても心配でしたが、どうすることもできず

入居予定のウィークリーマンションに向かいました。

夫とYouTubeで沖縄の動画やディズニーランドの動画を観ながら

“娘をいろんなところに連れて行ってあげたいね”と話したのを覚えています。

15日目

この日の娘はびっくりするくらいお肌が黄色くなっていました。

先生のお話によるとホルモンを操る機能が動いていなくて

内臓全体の数値がよくないとのこと。

腸の動きがよくない娘は点滴での治療しかできません。

でも、おしっこが出ていないとむくんでいく一方です。

そんな娘を見かねた先生が

「むくんでいくのはかわいそうだから…治療どうしますか?」と。

それでも娘の生命力を信じてもう少し頑張ってもらいたいとお願いしました。

病院からの帰り道「親のエゴかな…」とつぶやいたわたしに

「強い子ってみんなに言ってもらってるんやし、

もし止めて何かあった時の方が後悔するよ」と夫が言いました。

どんどん気持ちが張り詰めてきてうまく感情をコントロールできなくなっていた

わたしを夫は必死に支えてくれていたのだと思います。

16日目

娘の肌は黄疸でどんどん黄色くなっていて

貧血もひどく輸血をしてもらっていました。

先生からお話があり、この年から使えるようになった

点滴タイプのホルモンのお薬を使って治療をしていただけるとのこと。

できることはしようとしてくれている病院のみなさまのお気持ちがとても伝わってきて、心強かったです。

NICUの看護師さんとお話する機会をもらい、

ゆっくりお話してくださいました。

その方は娘の生命力を信じてくださっており

「やりたいことは遠慮なく言ってください」と仰ってくださったので

ちょうど前日の夜、徹夜して編んだ名前入りのミサンガを

そばに置いていただけるようお願いしました。

チューブシールに絵が描けることも教えてもらい

娘のまわりがすこしでも明るく楽しくなるように絵を描きました。

右下の絵は娘の誕生花である桔梗。

チューブシール

浴衣の柄のような渋い絵になってしまって看護師さんに笑われてしまいました。

いい思い出です。

看護師さんはわたしたち家族のことも褒めてくださり

コロナ禍で思うように家族を頼れなかったわたしたちにとっては心の支えでした。

17日目

この日の娘は黄疸が少しひいていました。

看護師さんが「抱っこしますか?」と聞いてくださったので、お言葉に甘えて…

たくさんの看護師さんと先生に囲まれての抱っこでしたが

娘の息遣いを感じることができてすごく幸せでした。

18日目

この日はまた先生からお話が。

わたしは先生から「お話があります」と言われるだけでドキドキするようになっていて

いつのまにか先生からのお話を聞く際は

いつも以上に背筋を伸ばして気をしっかり持つことが癖づいていました。

でもこの日は開口一番「本当によく頑張ってくれています。正直驚きでしかないです」といってくださり、

わたしたち夫婦は“やっぱりうちの娘はすごい”と思いました。

その後のおはなしは点滴からの感染症が心配だと。

危険な状態になる可能性のおはなしもされましたが、

もう悪い話は聞き流して娘を信じることに決めていました。

この段階では娘を家に連れて帰ることは難しいとも言われましたが

“絶対に連れてかえるんだ”と心の中でつぶやいていました。

19日目

この日の娘はまた少し黄疸が出ていましたが

おしっこは少し出ているようでした。

先生が帰り際に遺伝子検査の結果を教えてくださり

娘の染色体異常は私たち夫婦の遺伝子が要因ではない

という結果だということがわかりました。

何が原因であれ、こんなにたくさん抱えた状態で生まれてきてくれた娘には

感謝しかありません。

わたしたちを選んでくれて本当にこころから嬉しく思っています。

20日目

この日は遠いところにいる友人が地元に帰るついでにと、

コロナ禍でNICUを出入りしているわたしたちを気遣って

お菓子を玄関ドアにかけてくれていました。

心づかいが本当にうれしくて、甘いものが心にしみました。

NICUでは「今日も大きく変わりはありません」

と言ってもらえてホッとする自分がいる一方、

看護師さんや先生がいなくても抱っこしたりしたい。

という気持ちが沸き上がっていました。

正直この状況に慣れてしまっていて

この状況すら奇跡だったのにそれ以上を求めている自分がいました。

この先も娘は生きてくれていると信じて疑いませんでした。

ウィークリーマンションはいつまで借りようかな…

布団もそろそろ干したいな…

旦那の仕事はいつまで休みが取れるかなど

先々のことばかり考えていました。

娘はずっと生きていることを前提に過ごしていたのだと思います。

21日目

この日は敬老の日でした。

事前にネットで頼んでおいた物が届いたと祖母から電話があり、

「大変な時にわたしらのことまで気にかけんでええんよ」と。

祖母の声を聞いただけで涙が溢れました。

面会時の娘はむくみがひどくなっていましたが

大きく変わりはないとのこと。

むくみがひどくてもかわいい娘に変わりありませんでした。

22日目

この日の娘は話しかけると腕を上げたり

眉間にしわを寄せたりしてくれました。

いつも通り面会が終わり帰宅。

夜ご飯を食べて横になっているとNICUからお電話が。

血圧が徐々に下がってきているので今から来られますか?とのこと。

このような電話は初めてだったので二人とも動揺を隠せずにいました。

車から降りて時間外入口まで走っているのになかなかたどり着かない。

そんな感覚に陥るほどふわふわしていました。

NICUに入ると血圧が37まで下がっていた娘。どんどん下がっていく。

想いが一気にあふれ出す。看護師さんはそっと寄り添ってくれました。

両家の両親も呼ぶことになり、ふたりずつ面会をしてもらいました。

別室を用意していただき両家両親にはそこで待っていてもらうことに。

こんな時、コロナウイルスがなければ…と思いました。

23日目

娘は血圧低下をなんとか持ちこたえてわたしたちは病院で朝を迎えました。

両家には一度帰ってもらい

「おふたりも一度帰って休んでください」といわれたので

それくらい安定したのだと思いました。

13時にまた来る約束をして食事を済ませシャワーを浴び終わったころ

NICUからまたお電話が。

今度は心拍数が下がってきているとのこと。慌てて部屋を後にしました。

NICUについてからは小さな声でたくさんお歌を歌ってあげました。

犬のおまわりさんを歌うと心拍数が上がる不思議なことも起きました。

また娘が少し落ち着いたころ

前日から一睡もできていなかったわたしたちを気遣って先生が

「一度帰って少し休んできてください」とおっしゃってくださり

22時に来る約束をして病院を後にしました。

「また22時に来るから心拍数キープだよ」と話しかけると

すごい目力でこちらを見ていました。

“だいじょうぶにきまってるでしょ”と言っていたのかな。

この後のことは私の日記に書かれていないのであやふやな記憶ですが

この後NICUに行くと娘はあまり良い状態ではなく

両家の両親を呼ぶことになりました。

コロナ禍の制限があるため来てもらってすぐに面会するか

いよいよの時に面会するかどちらかを選んでくださいと言われ

残酷な選択でしたが、その時が来ないことを願う意味も込めて

いよいよの時に面会してもらうことにしました。

先生は「明け方の4時ころがその時だと思います」とおっしゃられ

「お父さんとお母さんも交互に休みを取ってくださいね」

と言ってくださったので夫に先に休んでもらうことにしました。

娘と二人の時間が取れたのは、この時が初めてでした。

コロナ禍でこんなに長い時間娘を見つめていられたのも初めてだったので

娘とのこの時間は一生忘れないと思います。

小さな声でたくさんのお歌を歌ってあげました。

NICUではゆりかごのうたがオルゴールでかかっており

いまでもこの歌を聞くとあの時間を思い出します。

眉間を撫でてあげるとくすぐったそうに眉をひそめるのがかわいくて

なんどもなんども撫でていました。

幸せでもあり、不安もある何とも言えない時間を過ごしていると

突然眉間を撫でてあげても娘が反応しなくなりました。

数値が危険になったら看護師さんが先生を呼ぶという話を聞いていたので

まさかとは思いましたが

看護師さんを呼ぼうか迷っていると急に看護師さんがバタバタとされはじめ

わたしは察しました。

旦那に連絡しようとその場を離れようとすると

「お母さんはいてあげて!」と強く言われ、

“ああ、娘は旅立ってしまったのだ”その時悟りました。

先生が慌てて入ってきて、娘を確認すると申し訳なさそうに

「お母さん、すみません。僕が思っているより早くて…」と。

「午前2時3分…」なんておっしゃったか忘れてしまいました。

待たせていた両親も、夫も呼ぶことができず、

ひとりでこの瞬間を迎えたことを受け入れられずにいました。

でも先生や看護師さんを責めるつもりは一切ありません。

夫や両親には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、

娘が静かに旅立ちたかったのだと思っています。

わたしを母親にしてくれて、娘には感謝しかありません。

今も近くで見守ってくれていると信じています。

以上で娘の生きた23日間のおはなしをおわります。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

出生前診断について~20代で染色体異常の娘を出産したわたしが想うこと~

はじめに

この投稿の内容はわたしなりに調べた程度のものです。

正確性を保障するものではありません。

出生前診断を受けずに出産したわたしが想うことを綴りますので、

この投稿で知らないうちに人を傷つけることもあるかもしれません。

ご了承いただける方だけ読み進めていただけますと、幸いです。

娘を出産する前の出生前診断に対する考え方

正直なところ20代のわたしには関係のないことだと感じていました。 

実際に受けるには条件もあるようですし、

条件には当てはまらなかったため受けるという選択肢は皆無。(当時2020年)

漠然と“結果を聞いて迷うくらいなら受けない方がいい”それくらいの考えでした。

そう思えたのもきっと、心のどこかでわたしには関係ないし…

という気持ちからだったのでしょう。

自分の娘が13トリソミーだと聞くまでは、本当に他人事だったのだと思います。

娘が生まれてすぐ染色体異常かもしれないと聞いたとき

正直“何かの間違えであってほしい”と思いました。

妊婦検診でもずっと順調だったので、まさか自分の子が…という思いでした。

娘が生まれるまでの過程はこちらの記事をご覧ください。

 

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緊急帝王切開で娘を出産し、その後染色体異常の可能性についてお話をされましたが

先生たちはおそらく手術直前の娘をエコーで確認した段階で疑っていたのでしょう。

娘が13トリソミーや18トリソミーの可能性があると聞くまで

染色体異常についてほとんど知りませんでした。

恥ずかしながら、染色体異常=ダウン症だと思っていたのです。

娘が生まれてすぐに先生が「ダウン症ではないと思います」と言っていたことを聞いて

染色体異常ではないのだと勝手に変換し、のちに反省したことを覚えています。

そのあと染色体異常にもいろいろと種類があることを知り、主な染色体異常は

21トリソミーのダウン症候群。18トリソミーエドワーズ症候群、

そして13トリソミーのパトウ症候群。

生まれてすぐに検査をしてもらい、結果が出るのは約2週間後。

心身共に疲弊していたわたしはあまり調べずに結果を待ちました。

どんな疾患であっても自分の娘は長く生きるのだと思っていたのです。

検査結果が13トリソミーだと説明を受けたとき 

娘が生まれてから11日後に結果が出ました。

それまでの期間、わたしたち夫婦は娘の生命力を信じて

前向きな治療をお願いしていました。

もちろん結果を聞いてからも夫婦の考えは変わりませんでしたが

漠然とした不安が重くのしかかりました。

わたしはいくら短命だと説明を聞いても

自分の娘は2歳、3歳と年を重ねていくのだと考えていました。

娘は普通の保育園には行けないだろうから

そういう子が通えるところはないかを探したり

治療費や環境を整えるにはいくらかかるかなどを調べたり…

そういう心配をしていました。

今考えると先のことより今できることをもっと考えればよかったと思います。

でも、あまりにも考える暇なく事が進みすぎて

現実を受け止めきれていなかったのです。

看護師さんに「つらいよね」と声をかけられても、

“何がつらいの?娘がこんなにがんばってくれているのにつらいはずがない”

と心のなかでつぶやいていました。

夫は、ちゃんと理解していました。わたしだけが受け止められずにいたのです。

✎娘は生まれてすぐに脳出血の手術をしましたが、恥ずかしながら初めての子で無知だったわたしたち夫婦は高額な医療費を覚悟して娘の手術の同意書にサインしていました。自分が退院する際の支払い時に娘の医療費に関する説明を受けて公的制度に申請し、負担はほとんどありませんでした。ただ、その後自宅から病院が車で1時間半ほどの距離にあったため、ウィークリーマンションを借りたりしてかかった費用はたくさんありました。

 

出生前診断に対する今の考え

わたしは娘が染色体異常だとは知らずに出産にしました。

もし事前に出生前診断でわかっていたら

出産するまで神経をすり減らして生活していたと思います。

わたしは娘が染色体異常だと知らずにマタニティライフを送ることができたから

娘がお腹にいる間、コロナ禍で制限はありましたが

心穏やかに過ごすことができました。

お腹の中にいた娘にとっても良かったと思います。

ただ、これはたまたま34週で先生に異常を見つけてもらい、

先生方の迅速な対応で病院を移らせてもらって

娘を設備の整った病院で診てもらえたから言えることです。

もし知らずに予定通りの産院で出産していたら、娘との23日間はなかったでしょう。

出生前診断は、ある人にとっては安心材料。

またある人には不安材料にもなり得る検査だということを

覚えておかなければなりません。

結果によっては生まれてくる赤ちゃんの状態に備えて

産院を変えることになるかもしれません。

出生前診断についていろんな意見があることを目にします。

でも、わたしは悩む人の数だけ答えがあるのだと思います。

きれいごとに聞こえるかもしれませんが

結果次第では当事者にならないとわからない悩みや辛さがあると思います。

周りがとやかく言えることでもありません。

わたしは娘が13トリソミーだと聞いた時、家に連れて帰ることが目標だったので

わたしのこれからの一生の時間はすべて

娘に捧げる覚悟をしなければいけないと思いました。

でも、ふたり目の子どもだったとしたら考え方はまた変わっていたかもしれません。

その時、その場面、その人の立場になってみないと想像できないことが

たくさんある繊細な問題だと思います。

もし身近にこのような悩みを抱えている人がいたら、

私が掛けたいと考えている言葉はただひとつ

“あなたの考えを尊重します”

 

奇跡の23日間: NICUでの出来事 #奇跡

娘は緊急帝王切開で生まれました。

生まれるまでの詳しい過程はこちらをご覧ください。

 

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ただただ、娘の23日間を振り返っているだけの内容になっております。

娘にしてあげられたこと、できなかったこと、

そのとき感じたことなどを綴っております。

誰かの役に立つかはわかりませんが、

温かい目で読みすすめていただけますと幸いです。

 

生まれた日

娘が生まれたのは2020年9月1日午後3時2分。

わたしは生まれてすぐの娘の顔を見ていません。

全身麻酔だったので、目が覚めたら娘はそこにいませんでした。

その日の夜、小児科の先生が病室にやってきて娘は今晩が山だと。

「生きていてくれたら明日脳出血の手術をするからその前に顔を見てあげて」

と言われ、夜中にストレッチャーでNICUに行って娘と対面。

1240gで生まれた娘はとってもちっちゃくて、かわいかったです。

2日目

娘は奇跡的に朝を迎えることができました。

昼食を持ってきてくれた看護師さんに

「13時から先生よりおはなしがあります」と言われて夫に連絡。

コロナ禍で面会は禁止されていましたが、

夫はすぐに動けるように休みを取ってくれていました。

昼食は食べられるはずもなく、

わたしにできることは13時まで時間が経つのを待つことだけ。

個室に案内されると脳神経外科の先生と小児科の先生がいました。

脳出血の手術を早急に行わなければいけないという内容で、

考えている時間はないとのこと。

”手術をしないという選択もあります”と看取りの提案もされました。

それは先生が冷たいとかではなく現実問題のはなしで、

成功しない確率も大いにあるということ。

それならあえて傷を残すようなことをせずに…という選択もあるということ。

産後すぐ、こんな残酷な話をされることが現実にあるのかと思いました。

少しだけ二人の時間をいただきましたが、わたしたち夫婦の考えはただひとつ。

すぐに同意書にサインをすると、

その二人の先生は手術の準備に向けて部屋を後にしました。

ほぼ放心状態の私たち夫婦に優しく声をかけてくださったのは、小児科医のT先生。

わたしたちが泣く前に先生の方が「ほんとうによく頑張ってくれています」

と涙ながらにお話してくださり、

“わたしたちの娘は本当にすごいのだな”と

手術をお願いしたことは間違いではなかったと思いました。

手術直前、娘に少しだけ会いに行き

「がんばろうね」と声をかける以外になにもできませんでした。

手術は奇跡的に成功。先生方には感謝しかありません。

部屋を用意してもらい21時まで夫といられることに。

その時間に娘の名前を決めました。

3日目

大部屋にいた私は、希望の個室があいたので個室に移動。

そのあとすぐ、コロナ禍で面会禁止のなか旦那の付き添い入院の提案をされました。

特別扱いが苦手なわたしは最初お断りしましたが、

看護師さんの説得で夫を呼ぶことに。

考えてみれば、はじめから病院側は

娘が長くないことを前提にわたしたちに対応してくれていました。

わたしはこの時“いつか娘をおうちに連れて帰ってみんなに会ってもらうんだ”と

ずっとそう思っていました。

だから付き添い入院なんてしなくたって娘はいずれみんなに会える。

大丈夫だと考えていたのです。

でもこの時看護師さんの提案をお断りしなくて本当によかったです。

夫と一緒にNICUにいる娘に会いに行くこともでき、初抱っこ。

娘はたくさんのチューブにつながれていたため

看護師さんや先生の5人がかりでの抱っこでしたが、とっても幸せでした。

4日目

この日は看護師さんのご厚意で娘の手形を取ることに。

手をぎゅっとしている娘の手形を取るのはとっても難しかったですが、

看護師さんのご協力で何とかとることができました。

このような時間をつくってくださり、本当に感謝しております。

そのときとった手形

5日目

この日は娘の脳出血が再発してしまいました。

もう手術はできないので、輸血等で対応するとのこと。

面会に行くと、娘は目を開けてくれていて目が合っているような気も…

もぞもぞと動いてみたり、まばたきしたり、

すこし微笑んでいるような表情もしてくれました。

心配そうに見つめるわたしに娘が“わたしは大丈夫だよ”と言っているようで、

心強かったです。

6日目

娘の状態があまりよくないというお話を聞いて動揺。

次の日にはわたしの退院が決まっていたので、

娘と同じ場所にいられない不安感に押しつぶされそうになりました。

そんなときでも娘はいつもと変わらず、

ドンと構えていて両目をあけてしっかりと生きてくれていました。

7日目

わたしは血圧が高い以外に異常はなかったため、あっさり退院。

娘と離れるのはさみしかったですが、

病院近くにあるゲストハウスに1週間入居することに。

退院前に娘に会いに行くと、

看護師さんからおしっこが出たと聞いて夫婦で喜びました。

おしっこが出ただけで、夫婦で喜べるなんて…

小さな幸せに気づかせてくれた娘には感謝です。

8日目

脳の出血が止まり、おしっこもでて動いていなかった腸が動き始めたとのこと。

0.5㎖の母乳も口にすることができたと聞き、とてもうれしかったのを覚えています。

夫は娘にパワーを送ると言って両手を広げて念を送っていました。

9日目

この日も娘はおしっこがたくさん出て、むくみが取れてきていました。

希望の光が差したように感じて、このまま良くなってくれると信じていました。

10日目

この日、はじめて娘の泣き顔を見ました。

声は出ていなかったものの、はじめて泣き顔を見られたのが本当にうれしくて

ゲストハウスに帰ってからも夫婦二人で

「泣くことができるんだね、感動したね」とはなしました。

11日目

この日は術後の抜糸をしてもらったようで

「とっても嫌がっていました」と看護師さんが教えてくれました。

「目力がすごくて目で訴えるんですよ~」と楽しそうにお話してくださるのをみて、

とてもいい方々に恵まれたなと感じました。

この日はもうひとつ、先生からお話がありました。

生まれてすぐにしてもらった染色体異常の結果

娘は13トリソミーでした。

あまり考えたくなくて詳しく調べることはしていませんでしたが、

ある程度覚悟はしていました。

そのうえで、娘はそれでも長く生きるのだと信じていました。

でも、面と向かって長く生きて1歳だと言われると悔しくて悔しくて、涙が出ました。

この日はわたしの母と父が娘に会う日だったので、直接娘の検査結果を報告。

父も母もわたしの話を静かに聞いてくれて、受け止めてくれました。

わたしの気持ちを尊重してくれて、支えてくれて感謝しかありません。

病院に任せっぱなしでなにもできない自分にも苛立ち、

娘を連れて帰りたい気持ちだけが先走り、

今までにないほど感情が入り乱れました。

それでも娘は生きるのだという気持ちに変わりはありませんでした。

 

娘のこと 出生と奇跡の生存

娘のこと

前回のブログ”mametsumugiについて”にて少し触れた

娘のことについてからお話ししたいと思います。

2020年9月1日午前10時。

かかりつけの産婦人科にて紹介状を受け取り、市内で一番大きな病院へ

前日までなんの問題もないと思い込んでいた娘。この時34週。

「前回の検診から大きくなっていません、帝王切開での出産になるとおもいます」

この時、娘の推定体重は1586g。前回から72gしか大きくなっていませんでした。

たしかにいつも「小さめですね」とは言われていましたが

そのあとは「とっても元気です」と言われ、毎回安心していました

私自身も小さく生まれて、ずっと小柄だからそのせいだろうな。

と軽く考えていたのです。

病院に着いてもまだ、何かの間違いであってほしいと願いました。

里帰りをすでにしていた私は母に送ってもらい、

とても心細かったですがコロナ禍を考慮し母には一度帰ってもらいました。

診察前に測った血圧は140越え。

普段低血圧の私にとっては驚く数字でした。

診察室に呼ばれると、優しそうな先生と看護師さんがいて

少しほっとしたのを覚えています。

横になるように言われエコー検査が始まり、

長い長い沈黙に押しつぶされそうになりながらも、

ついさっきまでびくともしなかった娘が元気にぽこぽことお腹を蹴っていたので

「大丈夫だよー」って言っているのかな。なんて考えたりもしました。

ようやく先生が口を開き、発した言葉は今でも鮮明に覚えています。

「おかあさん、この子はね、ただ小さいだけではありません」

「お口が裂けていて、心臓も弱く、たくさんの問題を抱えています」

ここの病院より設備の整った大学病院で出してあげた方が良いとのことでした。

口が裂けていることも、この日に初めて知りました。

これは私の妄想に過ぎませんが、娘は必死に隠していたのだと思います。

毎回エコー検査では背中を向けていて、両手で口元を隠していました。

性別も8カ月検診までわかりませんでした。

先生は毎回顔を見ようとしてくれていたけど見られなかったのです。

普段から心配性のわたしは、いつもいろんな妄想をします。

だけど今回のことは本当に想定外で、

まさか自分の子が…という想いでいっぱいでした。

3年間赤ちゃんが欲しくてもできなかった。

辛いこともあった。

ようやく待ちに待った娘との対面がすぐそこまできている。

なんて残酷なのだろうと思いました。

仰向けになりながら先生の話を聞いていましたが、

涙があふれて天井がゆがんで見え、黙って聞いているのが精いっぱいでした。

たくさんの想いが溢れてきました。

夫とお腹にいる娘に話しかけていたこと。

母が嬉しそうに娘の服を選んでくれたこと。

父が嬉しそうに私のお腹をみつめていたこと。

泣かないなんて無理でした。

私が泣くことによってお腹が揺れ、エコー検査が続行不可能になり

先生はこの辺にしておきましょうかと器具を置きました。

看護師さんは静かに背中をさすってくれていましたが、まだ信じられない。

“大学病院で診てもらったら大丈夫でした。”ってなるんでしょ。

ちょっと大げさに言ってるだけでしょ。

赤ちゃん本当は元気でしょ。

現実を受け止めるなんて無理でした。

待望の第一子。両家とも初孫。

これから待ち受ける現実は想像もつきませんでした。

許可をもらって、NSTをしながら家族に連絡をすることに。

夫に状況を連絡して、コロナ禍だからどこまで入れるか分からないと伝え、

母にも病院を移ることだけを伝えたような気がします。

その後、転院先の大学病院の指示により救急車で行くことになりました。

最初は母の車で行く予定だったのに、救急車で来るように言うなんて…

そんなに大変な状況なのだな…と、

ここでようやく自分の置かれた状況を認識しました。

1時間ほど距離のある病院だったのでトイレに行かせてもらい、母に連絡。

「救急車で行くことになった。荷物は積んでいけないから持ってきてほしい」と。

よく道に迷う母。「気をつけて、焦らないでゆっくり来てね」

昨日まで問題ないと思っていた自分の娘と孫がこんなことになって

パニックにならないはずがありません。

そんな中、運転させるのはとても心配でした。母と私は似た者同士。

お互いがとにかく取り乱さないように、冷静を装うのに必死だったと思います。

転院先からまた転院。救急車に1時間も乗っていくなんてだれが想像できただろう。

看護師さんはあたたかく見送ってくれ、先生は救急車に一緒に乗ってくれました。

救急隊員さん2人と先生ひとり、合わせて3人が座っている前で横たわっている私。

これで一時間…正直きついな…とおもっていましたが、

先生が気さくな方で隊員さんとお話ししてくれていたので、

あまり視線を感じずにいられました。

到着直前、先生が私に「向こうの先生に引き継ぎしたら僕は帰るからね」と。

ほんの少ししか関わっていない先生だけど、

知らないところに一人取り残される気がしてとても不安でした。

到着後、慌ただしく運ばれていく私。

不安を共有する人もいなくて精神的には限界でした。

状況を理解して整理する時間もない。

泣いている暇さえありませんでした。

大学病院に到着後、すぐに診察室に運ばれました。

そこにはたくさんの先生と看護師さん。

おそらく研修医の方も数名いらっしゃったと思います。

人数の多さに圧倒されました。

コロナ禍でまだまだ未知のウイルスとされていたこの頃、

ずっと密を避けていたわたしにとっては、それだけで少し怖かったです。

たくさんの人たちがいるなかで一人仰向けになっている。

エコーをしてもらっている間も先生たちが何やら話し合っている。

昨日まで元気だと思い込んでいた娘は、どうなってしまうのだろう。

手術もあるだろうし、コロナもあるからしばらくはみんなに会ってもらえないな。

娘を家に連れて帰れるのはいつになるだろうと考えていました。

だけど、そのような考えでさえ甘かったのだと後で気づかされることになります。

帝王切開になることは前日から覚悟していたつもりでした。

妊娠したら、誰だってそうなる可能性はある。

でも、どこか他人ごとで私には関係ないと思っていました。

あまりにも突然で、娘がたくさんのことを抱えているということを告げられ、

まだその現実を受け入れられない私に、帝王切開手術の同意書を渡す先生。

診察台の上で同意書にサインしている最中にも

看護師さんは私の靴下を脱がせたりして手術の準備を進める。

どのタイミングで手術着に着替えたのかも覚えていないくらい、

目まぐるしく事が進んでいきました。

全身麻酔のため赤ちゃんにすぐには会えないことを聞かされたのち、

車いすに乗せられて手術室に運ばれました。

たくさんの人がいる中で、自分の足でひとり手術台にのる。

覚悟も何もない。

ただ、のらなければ娘が危ないのだ。

のるしかない。

すぐに麻酔の処置が行われ、私は意識を失いました。

次に目が覚めた時には、娘がお腹からいなくなっていて

先生に名前を呼ばれて目が覚めた瞬間、涙が溢れました。

知らない人の前であんなに号泣したのは初めてだったと思います。

麻酔科の先生は「痛いみたいだから、薬を」と言っていましたが、

そうじゃない。痛みなんてこれっぽっちも感じませんでした。

ひとり自宅から離れたところへ送り込まれて不安を共有する人もおらず、

そのままひとりで帝王切開に挑み、終えたことよる安堵でもない、感動でもない、

でもなぜか号泣している。初めての感情でした。

赤ちゃんについて話してくれる人は、いなかった。

「元気な女の子ですよ」と一言聞きたかった。何も言われない。

元気ではない、ということだろう。と察しました。

エレベーターに乗って到着したところには、母と夫がいました。

夫は聞いたこともないような不安そうな声で私の名前を呼んでおり、

母もありったけの言葉を掛けてくれました。

もう、うなずくしかありませんでした。

そのあと、個室は空いていなかったため大部屋へ。

しばらくはぼーっとしていましたが、夫が特別に少しだけ入れました。

飲み物を届けてくれて少し話したけれど、あまり覚えていません。

看護師さんは手厚く看護をしてくれて、やさしく声を掛けてくれました。

「よくがんばられましたね。尊敬します。」と。

うなずくことしかできなかったけど、ありがたかったです。

何時かもわからない。気づけば消灯されていて、先生が入ってきました。

たくさんメモに書かれていく単語。

“先天性の病気” “横隔膜ヘルニア” “口蓋裂” “多指症” “重症” “早産” “低体重” “出血” “脳出血

“染色体の異常”ここで初めてこの言葉を聞きました。

娘がたくさん抱えていたのは、これが原因かもしれないということ。

出産する前の一番大きな問題は横隔膜ヘルニアでした。

だけど生まれてきた娘は脳出血を起こしており、

今晩が山だということも聞かされました。

もし、生きていてくれたら早急に脳出血の手術を行わなければいけない。

問題は山積み。私はキャパオーバー。

静かに話を聞くことしかできませんでした。

でも心のどこかで娘は大丈夫、生きるのだと信じていて

一緒に家に帰れる日を想像している自分もいました。

明日には手術をして顔がむくんで変わってしまうかもしれないからと

深夜にNICUへストレッチャーで連れて行ってもらいました。

娘との初対面。口蓋裂なんて気にならない。というよりも

それさえも愛おしかった。

かわいかった。

みんなに見せたかった。

会わせたかった。

 

mametsumugiについて

mametsumugiについて

このブログを立ち上げた経緯というとおおげさですが

ブログを立ち上げたいと考えるまでに至ったお話しを少しだけ。

2025年現在、30代前半で田舎に住んでいます。

夫とは25歳で結婚し、3年ほど不妊期間を経て妊娠しました。

不妊期間は非常に悩み、病院に行ったりもしました。

妊娠が発覚したのは2020年のはじめ、新型コロナウイルスが日本に来た頃でした。

はじめての妊娠、未知のウイルス、緊急搬送、緊急帝王切開

最愛の娘との別れ、退職、死別の苦しみ。家族との絆。姪っ子の誕生、第二子の妊娠、妊娠初期の新型コロナウイルス感染、切迫早産、入院、予定帝王切開。新築計画、引っ越しのおはなしなど、少しずつ綴っていきたいと思います。

娘の病気のこと、死別後の向き合い方、二人目の息子のこと。

パティシエを目指していたずぼら主婦が作る、ずぼらおかし。

すこし変わっている夫のおはなし。 etc …

自分の経験を綴ることでだれかを傷つけてしまうこともあるかもしれませんが

わたしが綴る言葉がだれかのこころをほんのすこしでも軽く、あたたかくできることを信じて投稿していきたいと考えるようになりました。

生きていくのもつらく、不安感からどうしても抜け出せず、どうやって自分を建て直せばいいのかもわからない日々を過ごしたわたしでも

このようにブログを立ち上げるところまで戻ってこられました。

いつか、だれかの希望になれるようがんばってまいりますので、温かく見守っていただけますとうれしいです。             mametsumugi